2009年2月5日木曜日

中心市街地への思い

新都市が開発されたために市の中心部がさびれてしまったと言われて久しい。旧市街地の空洞化については言い尽くされた感がある。中心部ではビジネスが成り立たないとはよく聞くことだ。市庁舎の郊外移転の噂さえ聞く。ある人は区画整理後の建造物に重みの無さを感じ、古い街並みを懐かしがっていた。街の中心が駐車場ばかりになっていくことを見るのは忍びない。man watchingという言葉があるとおり、人は人を見ていたい。駐車場ではないのだ。

実際、街を歩くと現在の中心市街地にとっては全くもって不利なことばかり聞く。しかしながら僕は旧市街地を惜しむ。中心市街地のにぎわい、利便性を惜しむ。そこは佐野という地を表現する顔なのだ。佐野市民なら知っている。市を挙げての夏祭りなどの舞台はどうしても中心市街地でなくてはならないということを。他の場所では不自然であるだけでなく役不足だ。新都市やアウトレット・モールには佐野の祭りは似合わない。なぜか。そこは特別の目的をもった特定の人々だけを集める場所だからである。すべての世代、階層が同様に出会えるのは旧市街地なのだ。そこには佐野の歴史が凝縮し佐野を象徴している。そこに地域の文化があり、誇りがある。そこは先人先達の困難、喜び、感動が経験され人々の記憶が共有される場所なのだ。佐野の心であり魂である。旧市街地の求心力だけがすべての人々を引き寄せることができる。僕はそこに「つながり」の場としての大きな可能性をみるのだ。

2009年2月3日火曜日

つくられた街

僕は人が歩ける街、歩行者に優しい街を提唱している。そしてアウトレット・モールは確かに歩行者に優しいし歩きやすい。(歩行者しかいないのだから当たり前か。)しかしながらアウトレット・モールが演出しているのはディズニーランドと同様「非日常性」である。店で働く人たちは皆、映画のセット内の役者のような雰囲気をもっている。道行く人たちは自分も含めて映画のエキストラのようだ。ではどこに主役がいるのだろう。自分ではないことは確かなのだが・・・。つくられた街ではいつも人々が裏方となって「街」を引き立てる。「トゥルーマン・ショー」という映画を思い出してしまうのは僕だけではないだろう。

非日常の空間を否定するつもりはないし、それはそれで楽しいものである。がしかしそれは本当の街ではない。アウトレットが「街」を演じるのは午前10時から午後8時まである。店が閉まると誰も住まない街はゴーストタウンである。「街」の営業時間が人々の行動をコントロールしていることこそがその「主役」の地位を証明していると思う。

本当の街には人が住み生活するものである。住む人々がそこを移動する。その移動手段が徒歩でも可能である街、歩くことができる街を僕は提唱するのだ。しかしだからといって他の交通手段を排除しようとするものではない。車も自転車もオートバイもあってよいのだ。人々には自由があるのである。夜中であろうが散歩したければ散歩すればよい。行動も時間も多様性があってよいのだ。

人は本来多様なものである。その違いを乗り越えての「つながり」こそ意味があるのだ。違ったライフスタイル、世代、職業、人種、性別などで街を隔ててはならない。本物の街とは多様なものである。

質問および提案項目と結果 ☆ 「 佐野市の産業団地の人気上々 」 田沼インター産業団地分譲は、5年計画で実施したところ、ほぼ1年で完売の見込み。 ☆ 「 佐野におけるインバウンド 」 観光地でなくても、海外からの観光客の6割がリピーターで、彼らの間では、...