「私の通学路には何もない。あるといったら家と道路ぐらいだ。とてもつまらない。道順はずっーとまっすぐだ。特に楽しくもなく危険でもない。私の理想の道は、通っているだけで、とても楽しくなる道だ。毎日いろいろ発見できるものがある道だ。公園のような広々とした道である。たとえばトンボ、バッタ、チョウなどの虫がいて、歩いているだけで楽しくなるような道だ。もし、そんな道があれば毎日の登下校が楽しくなるはずだ。でもこんな素敵な道があるだろうか。たぶん、ないだろう。」
先日90歳を迎えたあるご婦人から言われたことを思い出した。桜の堤の遊歩道を30年も前から、また電柱の地下埋設を20年前から夢見ていたとのこと。ある珈琲店の主人はこう言う。「今、必要な道は花の咲く『あぜ道』である。われわれが子供の頃走り回って遊んだ『あぜ道』なのだ」と。共通するのは歩行者の視点である。実際に足で歩いている人たちの声なのだ。
車を降りて歩きだすとき、普段見過ごしてきた街並みに新しい発見がある。ゆっくりと歩き出すと人は発見を求めだすと言ったほうがよいかもしれない。足裏に感じる感触、様々な音、頬に触れる風、匂い、そして出会いだ。歩く場所との「つながり」ともいえる。車社会の断絶とはこれとは対極にある。なぜならそれは「つながり」を否定し人間の感覚を小さな車内という部屋に閉じ込めるからだ。車の中はきっと僕たちにとって、とても退屈なものなのだ。だからラジオ、音楽、芳香剤、はてはテレビなどのエンターテイメントが必要になる。
歩いてみよう。まちに本当に必要なものがわかるかもしれない。道の機能はアクセスだけではない。子供の作文の結びをこんな風に出来たらと思う。「・・・歩いているだけで楽しくなるような道だ。もし、そんな道があれば毎日の登下校が楽しくなるはずだ。こんな素敵な道があるだろうか。たぶん、佐野にならあるだろう。」